「罪の赦し」 08.10.26
マタイ18:21〜35
ヨーロッパでは、食前の祈りの際に罪の赦しを求めると聞きました。
一日何度も罪の赦しを祈るのです。思えば、主イエスは「主の祈り」で、
日毎の糧に続けて罪の赦しを祈るように教えてくださいました。どちらも、
私たちが祈り求めるべきことであるからです。
人には、神に対して犯した罪があります。神に従わず、背き、無視する
罪です。その罪が解決されないところでは、人は自由に、自分らしく、
健やかに生きることはできません。神に愛され、神の御手に包み込まれる
ように守られている安心感を持つところでこそ、人は人らしく生きることが
できます。生きるにも死ぬにも、この安心が人を人とします。
人は、そのようなものとして造られているからです。
しかし、神に背き、神との関係の破れているところでは、安心を手に
入れられません。主イエスは、人が罪の赦しを求めることの必要性を
ご存知でした。
私たちは、すでに主イエスが十字架にかかってくださったことを知って
います。罪の赦しを祈り求めると同時に、主イエスの十字架によって
罪の赦しがもうすでに与えられていることに目が開かれます。
主イエスの十字架による赦しの完成に心を向けるのです。
ですから、主の祈りは感謝の祈りになります。
主の祈りは「わたしたちが罪を赦すごとく…」と祈ります。
人を赦すことが、自分の赦されるための条件になるのではありません。
神に赦された喜びの中で、周りの人に目を向けるのです。
プロテスタント教会は、私たちが罪を赦すのは、神さまの赦しを指し示す
証(あかし)の生活をすることだと考えました。「条件」ではなく「しるし」です。
自分が神に赦されたことと、自分が人を赦すことを別々にするべきでは
ありません。
主イエスは、多額の借金を帳消しにしてもらったのに、仲間の
わずかな借金を許せない不届きな家来の話をされました。
そのようになって欲しくないと願われる、主イエスのお心を忘れないで
いたいのです。